インタビュー

「ソニー・プルデンシャル生命 誕生秘話」安藤国威氏 vol.2

私たちのアドバイザリーボードメンバーを引き受けていただいている、元ソニー株式会社社長で、現在長野県立大学の安藤国威理事長から、リーダーシップ、アントレプレナーシップについて代表の大坪が伺いました。

「ソニー流リーダーシップ成功の秘訣とは」安藤国威氏 vol.1はこちら

今回は、若き日の安藤氏自身がリーダーシップを発揮した具体的な事例として、ソニー生命とプルデンシャル生命の誕生秘話を伺いました。ちなみに、安藤氏と代表の大坪の接点となったのがソニー生命なのです。

当時、保険会社の新設がほぼ認められなかった日本の金融当局の手厚い保護行政に、「よそ者」である電機メーカーのソニーと米国資本のプルデンシャルがどうやって風穴を開けたかのストーリー。ぜひお楽しみ下さい。

安藤国威(あんどう・くにたけ)氏 プロフィール

一般社団法人 Japan Innovation Network 理事、公立大学法人 長野県立大学 理事長、ジャスミー株式会社代表取締役

1942年生まれ、愛知県出身。東京大学経済学部卒業。

69年ソニー入社、79年ソニー・プルデンシャル生命保険(現ソニー生命保険)代表取締役常務。85年同副社長。94年ソニー取締役、96年同インフォメーションテクノロジーカンパニープレジデント、2000年ソニー代表取締役社長兼COO、05年ソニーフィナンシャルホールディングス代表取締役会長兼ソニー生命保険会長。ソニーでパソコン「VAIO」や携帯電話、デジタルカメラの開発・事業化を主導。ソニー生命保険の立ち上げ時も中心となり、新たなビジネスモデルを確立する。

またアントレプレナーシップとしても、2016年にジャスミー株式会社を設立、代表取締役に就任。「データの民主化」を実現する活動に邁進中。

安藤国威氏 と 代表大坪

【ソニー・プルデンシャル生命誕生の軌跡】

—-ソニーとプルデンシャルの合弁会社がどうして成功したんでしょうか。

安藤氏:ソニーとプルデンシャルの合弁がなぜ成功したかというと、日本のことに全く無知なプルデンシャルと保険のことにまったく無知なソニーがやったからです。

それでそこに私だとか坂口陽史さん(プルデンシャル生命創業者)みたいな36歳の若造が経営を任されて、「やってみろ」とか言われてね。

例えば、セールスレディではなく男性主体のライフプランナー制度も過去、業界でやったことあって失敗した過去の歴史などを知らなかった「よそ者」だから、「これで行こうじゃないか」と恐れを知らずやったわけですよね。

それが成功の理由だと思います。

—-どうしてパートナーとしてプルデンシャルを選ばれたんですか。

ソニーと出会う以前から、プルデンシャルは合弁のパートナー探しに日本に来てたんですよ。

ある時、プルデンシャル会長のドン・マクノートンさんが合弁会社のパートナーを探しに日本にきたんだけど、日本企業から全く相手にされなくて、諦めて明日帰るというときに、旧知のモリタ(注:盛田昭夫 当時のソニー会長)に会いに行こうとソニーに来たわけです。

で盛田さんが「どうしたんだ」ってきくと、

「合弁のパートナーを探しに来たんだけど、全くダメなんだ」との答え。

そしたら盛田さんが「じゃあ、ソニーが合弁会社を一緒になって作るか」と。

そうしたら、ドン・マクノートンが「お前本気か」と言って(笑)。それが契機でした。

私が関わることになったのは、ソニーアメリカのマーケティングスタッフとしてアメリカに赴任するときでした。

ニューヨークがその赴任地だったんでしたが、全米の大手ディーラーを集めたナショナルセールスコンベンションというのがサンディエゴで開かれる時期と重なったんですね。

ちょうど経由地の西海岸だし、それまで私は、本社とか工場は経験したけども、セールス部門を経験したことがなかったわけです。

そこで、セールスコンベンションとはこういうもんだということを経験していこうということになって宿泊先のホテルの食堂に行ったら同じホテルに泊まっておられた盛田会長から呼ばれたわけです。

「なんだろう」と行ってみたら、盛田さんから

「今日の午後、お客さんと会うんだけども、これはその資料だから翻訳してレクチャーして」と英語の資料を渡されたんです。

分厚い資料をワーッと読み始めたら、それはプルデンシャルが作った日本進出のための資料だったんですね。

どうりで全然わからない単語がいっぱい出てくるわけです。それもそのはず、保険用語だったから。その時、私は電機メーカーのソニーが何で保険をと思ったのです。

でも、盛田さんがずっと金融業を手掛けたいと思っていたのを知っていました。

だから「あ、これは実現するかもしれない」とその時思いましたね。

実は、それまでソニーは何年もかけて銀行を作るために当時の大蔵省と交渉してきたんだけど、全然成功してなかったんです。

だから銀行は諦めていたところへ、このプルデンシャルとの生命保険プロジェクトがスタートしたんだけれども、これも最初はなかなかうまくいかなかった。

—-ソニーの重役クラスがプロジェクトリーダーを勤めても、3年半の間も交渉が進展しなかったんですね。

私は4代目のプロジェクトリーダーなんだけれども、前の3人の方たちは当時の専務さん、常務さんだったりしたわけなんですけど、なかなかうまく進まず、プルデンシャルと合意してから3年以上経ってしまったわけです。

大蔵省と交渉しても、なかなか前に進まなかった。

それで、実はプルデンシャル側からもうやめようってことになったのだけど、盛田さんが

「残念だ」と言って、「どうしたら成功するんだろう」とプルデンシャルと相談したんですね。

その時に、「ソニーアメリカに安藤というのがいるだろう。こちらにはコンサルタントで坂口という若い日本人がいる。若い2人に任せたらどうか。唯一成功する可能性はこれしかない」と向こうから言われたんです。

でもこんな若い二人にできるだろうかと恐らく盛田さんも半信半疑だったと思うんですね。

【人生を変えた盛田昭夫さんのひとこと】

で、ニューヨークの盛田さんのオフィスに呼ばれて、プロジェクトリーダーになるようにと言われたのですが、私ははもちろん断りました。何しろ念願叶ってニューヨーク赴任して約3年。これから頑張ろうと思っていたわけですから。

でも、その時盛田さんはこう言ったんです。

「You have nothing to lose」

「君、失うものは何もないじゃないか」と。

「自分と井深さんで電気のソニーを作ったんだ」

「大賀さんがソニーミュージックを作った」

「金融ってすごいぞ。君は金融の第一人者になれるんだよ。挑戦したらどうだ」

と言われて、

「You have nothing to lose」か(笑)

「そうか、その通りだな」と。

そこまで言われるんだったらと思って引き受けたんですね。

で、プルデンシャル側の担当者の坂口陽史氏とあとプルデンシャル側のプロジェクトリーダーのと、まぁ基本的には3人が中心になって、プロジェクトを進めることになったわけです。

ソニー側には私のスタッフが4,5人いたけども、保険についてはほとんどみんな素人。

で、このチームで当時の大蔵省から生命保険の免許を取得する交渉をする、ことになったんだけど、なんと半年で免許を取っちゃった。

【たった半年でライセンスを獲得できた秘策とは】

その時の作戦はこうなんです。

それまで、交渉はソニーが担当したのだけど、プルデンシャルのチームにダイレクトに交渉に参加してもらうことにしたんです。

そうすると彼らにも、いかに日本の官僚の頭が固くて、ああだこうだ言ってきてることが分かるわけです。

今までは交渉をソニー側がやってて、彼らはその場面を直接見ていないもんだから、それが「ほんとにそうなのか」ってもうお互い信頼感がなくなっちゃった状態だったわけですね。

アメリカ人のプル側のプロジェクトリーダーにも、「坂口さんがいるから日本語で交渉できるんだから、やってみたら?」と。

「必要な時は応援するから」と彼らに前面に立ってもらったら、なんと半年で免許取っちゃった。

それまで3年半かけて取れなかったライセンスを、半年で取っちゃったもんだから

「えーっ」とみんな驚いて(笑)

で、その時「私ははこれでアメリカ(元の部署に)に帰りますから」と言ったら、

盛田さんが「どこ行くんだ」と。

「あなたがこれ(保険事業)をやるんだよ」みたいな(笑)

その時、初めて自分で事業を担当してももいいなと思ったわけですよ。

だって自分で交渉してきたことを実現しなかったら意味ないわけで。

その時点で開業までにあと1年半しかなくて超多忙だったけど、半年だったらなんとか時間を作れるなと、ニューヨークのプルデンシャルに6ヶ月間の保険の修行に行ったんですね。実はこれはプルデンシャルとの約束で、保険ビジネスを知らない安藤には1年間はプデンシャルの現場で研修させるということになっていたんです。

で、研修は、本社の企画部門から始まって次は事務管理部、アンダーライティング部門、で最後は営業部門に行って支社制度というのを研究したんです。

マーケティングに関しては、日本の保険業界のいろんな調査をやったわけです。

日本の生命保険会社の販売のやり方を見学に行ったりして、いろんなやり方を調べた結果、セールスレディを主体とする今までの保険販売のやり方を私たちは選択しないと結論しました。

で、マーケティングの調査をしたんだけど、その結果、たった9%の人しかこの方法を支持していないことが判明したんですね。

で、私たちは「たった9%しか支持していないのか、こりゃダメだ」とがっかりしたんだけど、アメリカ側は「なんと、9%もの人が賛成している」と喜んでいるわけですね。

そういう風に、見方が全然違うということを初めて知ったわけです。

「ああ、プロの連中はこういう風に考えるんだ。俺たちど素人がああだこうだ言ったってあかんな」と思い知りましたね。

実は、この「金融のプロフェッショナルによる販売方式」はプルデンシャルでも米国で実現できていませんでしたので、これを日本的にやったらどうなるというんで、試行錯誤の結果できたのが、ライフプランナー制度。

私が拘ったのは「ライフプランナー」という名称です。私は当時の保険の外務員ですとか、外交員ですとか、保険のセールスマンと言ったイメージとは全く無縁のプロフェッショナルなイメージを作りたかったんです。

そこで、私はいつも「ドクター、ローヤー(弁護士)、ライフプランナー」と言っていました。それは、人生には3人のプロのアドバイザーが必要。その一人が「ライフプランナー」だってね。

支社制度は内容は全く別にしてもプルデンシャルのものを参考にしたのですが、それ以外の報酬制度にしても、資格制度にしても、全ての制度や仕組みはみんな私たちがゼロから作って行きました。本当に無から有を産んできたですね。

【世界を変えるのは 若者・バカ者・よそ者】

まぁ、やっぱり狂気じみたことをやってのけるのは「若者・バカ者・よそ者」しかないんですよ。

よそ者というのは他の業界からきた者ですよね。

だから私みたいに保険のことをまったく知らなかったからできたわけで、私が保険の素人だったからこそ挑戦できたんです。

これがまさに成功の秘訣だと思うんですね。

—-障がい者福祉では、私がまさに「よそ者」です。

そう、よそ者ですよね(笑)

福祉業界で育ってきた人はそうそう思い切ったことができないですよ。

思い切ったこと、革命的なことができるのはよそ者ですよ。

それでいいんじゃないですか。

「若者・バカ者・よそ者だからこそできる『リーダーシップ』」安藤国威氏 vol.3 に続く

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